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『「駅の子」の闘い』 戦争孤児たちの 埋もれてきた戦後史 - Coggle Diagram
『「駅の子」の闘い』
戦争孤児たちの
埋もれてきた戦後史
中村光博
幻冬舎新書
2020年1月30日
「自身も疎開中に戦争孤児となり、学童疎開中に孤児になった子どもたちのことを精力的に研究し、調査を進めている金田茉莉さんは、「疎開など行かずに親と一緒に死んでしまえばよかったと思わない日はない」と振り返る。孤児となってからの絶望的な孤独感や親戚宅で受けた屈辱的な経験を思うと、疎開など行かずに親と一緒に死んでいた方が幸せだったとさえ考えることも理解できる。
もちろん、学童疎開は多くの子供の命を容赦ない空襲から救ったという部分が大きい。しかし、40万人もの子どもを家族から離し、田舎へと移した背景には、将来の戦力を温存したいという国の目的も透けて見える。疎開中に、突然孤児となった子どもたちにとってみたら、きわめて残酷な政策だったとしか言いようがない。」 p.87
「参加者の一人、葛西氏は当時の混乱を次のように振り返っている。
〈終戦の直後の児童行政は、実に思い出しても寒心というのは寒い心のほうですが、よくもああいう状態でおったものだというくらいな状態でありました。戦争前、昭和十四、十五年頃ですかね、厚生省に児童課というものがあり、そうして児童行政というものをとにかく少年救護だとか、それかあの頃は生めよ殖やせよという時代でしたから多子家庭の表彰という仕事などをやったのですが、終戦の直後になっtみるともう殆ど子どもの事などというのは問題にもならなかった。あのどさくさに会社は全部閉鎖してしまう。そこから吐き出す失業者は非常に多い。外地からは引揚者が六百万も帰ってくる。それから食うに困るものはうんとできるし、軍人の遺家族なんかというものを特別取り扱わなければならない。戦災者という非常に大きな困ったグループができてしまったし、そんなこんなことで全くてんやわんやの状態、これをなんとかせねばならんというのが終戦の直後の我々の仕事であったのです〉」p.124
『厚生23(4)』
厚生問題研究会
「一瞬で景色が一変してしまった広島。家までの道は、ひどいやけどで皮膚が溶けたようになって、泣き叫ぶ人であふれ、川には死体がたくさん並んでいた。地獄絵図だったという。
「いっぱいいた……ものすごいよね。死んだ人というのは、普通なら一人死んでるだけでびっくりしちゃうんだけど、あんまり多いけえ、なんとも思わなくなっちゃうんだよ」p.149
「アメリカの公文書館に保管されていたGHQの公文書、1946年9月9日付の「日本帝国政府宛の覚書:世話と保護を要する児童の提案について」という内部文書には、戦争の影響で浮浪児となった子どもたちが依然として各地で悲惨な状況にあることに対して「日本の完了の歴史的な無感覚無関心さがこの種の活動において、職員、食料、設備の不足よりもさらに障害になっている」という記述がある。
当時、日本の児童福祉の充実を推進するためには、支援者の数、食料、そして支援施設等あらゆるものが不足していたものの、児童福祉行政をリードするべき官僚たちの意識の低さこそが、致命的な障害になっているという厳しい指摘だ。」p.160
「(昭和21年6月以降にはじまった)こうした、なりふりかまわない孤児の捕獲作戦は、当時、孤児の間で「狩り込み」と呼ばれ、恐れられていた。嫌がる子どもたちを、文字通り「狩り」のように強制的に捕まえて収容することを指し、行政文書でも「狩り込み」という言葉が使われることがあった。
しかし、収容先の施設は数が限られ、食料も大幅に不足していたため、保護された子どもたちは、施設内の劣悪な環境に苦しむことになった。」p.167
子どもの脱走防止
衣服や靴を取り上げる
鉄格子の中に監禁
「伊藤さんによれば、この施設は戦争孤児の収容所として新たにつくられたもので、施設長は近くにあった感化院(非行少年の保護・教化を行う施設)の院長が兼任していた。それゆえに、子どもへの接し方の基本的な発想が、「悪さをする可能性のある子どもは、精神面からたたき直さなくてはならない」というものだった。他の多くの職員も、子どもたちに高圧的な態度で接していたという。
「お前らは悪いことをしてきたと、頭から決めつけて、刑務所と同じようなところに入れられる。だけど私にとってみたら、悪いことをしてきた覚えがないわけですよ。なんで俺はこの中に入らなくちゃならないんだという思いがありました。
昭和20年までの軍国主義時代の教育論を信じていたり、それが体に染み付いている大人たちが、終戦後しばらくは、まだたくさん日本の中にいたということですよ。だから戦争孤児で路上で暮らすことになった私達は、虫けらのごとく思われていたと思うんです、みんなそういう態度でしたよ」p.181
東水園
品川埠頭、当時の台場
「島流し」
海に囲まれた環境
脱出するために溺死する子ども
児童労働
畑
菓子工場
児童福祉法
昭和22年11月成立、翌23年4月から施行
児童養護施設
子供の人数に応じた運営費が配布される仕組みが整備され、施設の置かれた環境は、次第に改善されていくことになる。
現在の日本の児童福祉の基礎
「すべての国民は、児童が心身ともに健やかに生まれ、且つ、育成されるように努めなければならない。すべての児童は、等しくその生活を保証され、愛護されなければならない」
「私が一番、彼から聞いた話で、ショッキングな話として受け止めたのは、浮浪児であるゆえに、食うためには、窃盗しなければ、盗みをしなければ生きていけない、だから盗みに対して、罪の意識を感じたことがないっていうんですね。彼が浮浪児として生きるために盗みをすると、これは、人のものを取るから悪いんだっていう、感覚がないということなんですよ。
生きていくためには、どうしても盗まなきゃいけない。ということは、犯罪以前の、生存の問題だったということです。彼は、犯罪を犯す、窃盗をすることで、少年期を生きながらえた。
だから、成人になっても、盗みをするっていうことは、生活の一部みたいな感じなんですかね。我々が会社に出勤して、仕事をするっていうのと同じ感覚で盗みを働けるという。
だから、浮浪児時代に培った盗みが、彼の犯罪の原点になってるんですよ、それがぐんぐん成長していって、殺人にまでたどり着いたという風に、私は考えていますね」p.214
熊谷徳久元死刑囚と10回にわたり接見し、話を聞いた作家の菅野国治
「言葉っていうのは、これは武器よりも強い、剣よりも強い」p.224
1950年 昭和25年
冷戦構造下、米ソの代理戦争とも言える朝鮮戦争が勃発
日本国内は朝鮮特需にわき、復興はさらに加速していった。
ストリートチルドレン状態だった戦争孤児も、各地の路上から姿を消していった。
働ける年歳に達したことが大きな理由だと考えられている。
人々の戦争孤児に対する関心も急速に失われた。
「何よりもつらかったのは、自分には帰るふるさとがない。支えてくれる家族が誰もいない。たった一人という孤独感でした。」p.229
「自分が黙っていない、戦っているその強い姿勢を、いやがらせをしている相手に、態度でわからせるのです。相手に「こいつはうるさいぞ、なかなか手強いぞ」と感じさせるのです。そんな前向きで戦う姿勢があなたを守り、イヤガラセをやめさせることになります。絶対に相手に後ろを見せたり、「逃げの姿勢」をとるのはやめることです。
相手が複数でも恐れることはありません、何人いても自分が戦う相手は「こいつ」だと決めてそれに立ち向かっていくのです。「言われっぱなし、やられっぱなし」これが最悪です。自分をどんどん弱くし、谷底に自分を自分自身で落としてしまいます。」
「僕のことを本当に必死で考えてくれていたのはお袋だったと思いますよ。やっぱり、子どもたちにはお母さんのぬくもりが必要なんですよ。それがあって人生というのが始まるのだと思うな」p.238