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『知られざる軍都 多摩・武蔵野を歩く』 洋泉社編集部 - Coggle Diagram
『知られざる軍都
多摩・武蔵野を歩く』
洋泉社編集部
第一章 軍都の残像
多摩東部・武蔵野をめぐる
特攻隊が飛び立っていった
調布飛行場
中島飛行機三鷹研究所
ICU本館には、三鷹研究所本館がそのまま利用されている。
陸軍燃料廟
現在は、調布飛行場、東京外国語大学、警察大学校、味の素スタジアムなど
調布陸軍飛行場
1941年 竣工
戦後、進駐軍に接収され、飛行場の一部が水耕農場になる。
1973−74 飛行場と周辺の土地が日本に返還される。
掩体壕(えんたいごう)
当時は約30基あった。現存するのは4基。
椎の実子供の家保育園に保存されている高射砲の台座
兵器からレーダーまで研究していた
多摩陸軍技術研究所
日本最大の軍事メーカーの工場
中島飛行機武蔵製作所
中島航空金属
軍都・武蔵野のシンボル
戦後、西側が米軍立川基地の将校家族用宿舎として使用された。通称「グリーンパーク」と呼ばれ、1976年に返還された跡地が武蔵野中央公園である。p.28
一方、東半分は1951年、プロ野球国鉄スワローズのホーム球場「グリーンパーク球場」が開設され、同年、三鷹駅から同競技場まで電車が走った。
球場の使用は1シーズンで終わり、同線も1959年に廃線となる。廃線跡は、現在「グリーンパーク遊歩道」と「堀合遊歩道」という緑道に生まれ変わっている。p.30
東伏見稲荷神社
空襲でなくなった中島飛行機の従業員を祀る慰霊碑が立っている
結核を患った軍人の療養施設
傷痍軍人東京療養所
清瀬
病院の街として独自の展開を見せた。
第二章 軍都の残像
多摩西部をめぐる
今も道路名にその名を残す
東京陸軍航空学校
のどかな里山にある陸軍の隠し場所
横沢入 地下壕・戦車橋
陸軍航空関係施設が集中していた
立川飛行場
日立航空機立川工場
昭和飛行機
都内最大の米軍基地に姿を変えた
多摩飛行場
第三章 軍都の残像
多摩南部・神奈川県北部をめぐる
陸軍の弾薬を製造・保管していた
田奈弾薬庫
戦後は米軍が接収して、弾薬庫として利用された。朝鮮戦争のときには、大量の弾薬が運び出された。
現在はこどもの国
高尾山の麓に掘り進められた
浅川地下壕
1944年 浅川地下壕の工事が始まる
中島飛行機の地下工場
1000人以上の朝鮮人労働者が工事に従事した。
主に、崩れた土砂をトロッコで運び出すのが役割
1945年10月から年末にかけて、彼らの殆どがこの地を離れた。
ドリルで岩に穴を開けてダイナマイトを仕込み、爆発させて崩れた土砂を運び出す。この繰り返しで掘り進める。
浅川地下壕の保存をすすめる会
月に一度の見学会
緑に囲まれた陸軍の火薬工場
多摩火薬製造所
尾根の悪路を利用した軍用車のテストコース
戦車道路
戦争用車両などを製造していた
相模陸軍造兵廟
数々の軍事施設が集まった軍都・相模原に残る
陸軍通信学校
知られざる秘密謀略研究所
陸軍第九技術研究所
第4章 軍部の残像
埼玉県南部をめぐる
戦争の事跡が数多く残されている
陸軍航空士官学校
エンジンなどを制作した疎開工場
中島飛行機吉松地下工場
現在は、国指定史跡「吉見百穴」
古墳時代末期の墓穴
国指定の天然記念物であるヒカリゴケも分布している。
1945年初頭から工事が始まり、6月ごろに地下軍需工場が設けられた。この工事により、数十の横穴が破壊された。3000〜3500人の朝鮮人労働者が集められ、掘削作業を行った。
陸軍が使用していた日本初の飛行場
所沢飛行場