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神話作用 - Coggle Diagram
神話作用
16 深みの宣伝
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p71
全くのモリエール喜劇の医者の用語だ
モリエール
モリエールとして知られる、ジャン=バティスト・ポクランは、フランス王国ブルボン朝時代の俳優、劇作家。ピエール・コルネイユ、ジャン・ラシーヌとともに古典主義の3大作家の1人。悲劇には多くを残さなかったが、鋭い風刺を効かせた数多くの優れた喜劇を制作し、フランス古典喜劇を完成させた。
笑いのターゲット
モリエールの芝居で笑いの対象になるのは、行きすぎた気取りや知識欲、偽善、不道徳、何にもまして金銭を優先する態度、思い込み、社会秩序を乱す正直さ等。それ自体というよりも、過度で過激な行動が問題にされた。
17世紀後半の宮廷社会では外見が大きな役割を果たし、外見によって中身が装われる時代だった。
そのために、外見を通して実際を見分けることが大切であり、外見に騙されないようにする必要があった。
しかし、どのように見分けたらいいのか?
当時は「自然さ」が重視され、それが真実の印と見なされた。自然であれば、その場に相応しく感じられ、「中庸」で「良識」に従っていると見なされる。反対に、「過激」で、行きすぎなものは不自然であり、場に相応しくなく、偽りの印になる。モリエールの笑いは、その偽りを暴くことにつながる。
第6回:70年代と80年代
ポストモダン社会(情報メディア社会)の到来
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モダニズムの二元論の無効化
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メディア化した社会とは・・・
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その代表的な例は、1664年にヴェルサイユ宮殿で初演された『タルチュフ(Tartuffe)』。 タルチュフは、裕福な商人オルゴンと彼の母ペルネル夫人にとっては、信仰に篤く敬虔なキリスト教信者に見える。しかし、家族の他の人々の目には、偽善者にしか見えない。 その二つの視点のどちらが正しく、どちらが間違っているのか? 信仰の人なのか、偽物の信者なのか? それが中心的な主題になる。
滑稽さがその答え、つまりタルチュフの真実の姿を暗示する。
モリエールの笑いは、行きすぎた言動に向けられる。
過度の振る舞いは見せかけであることを示し、実質ではないことの証になる。本物ではないのに本物ぶるところに無理が生まれ、不自然になり、滑稽でしかなくなる。
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過度のシュミレによって笑いを誘う
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シュミレ
シミュレ(simuler)とは、
ないことをあるように見せかけることであるが、現代社会は、シミュレーション原理に基づくシステムとして決定的な転換を遂げた。この段階に至ってシミュラークルは、オリジナルとコピーの二項対立、すなわち原因と結果、起源と終末を問題としない、価値の全面的相対性、全般的置換、組み合わせのゲームとして不在の現実の記号となる。決して実在と交換せず、自己と交換するしかない、照合するものも、周辺もないエンドレス回路。シミュレーションとは「真」と「偽」、「実在」と「空想」の差異をなし崩しにしてしまうハイパーリアルなのである。それは、現実自体をシミュレーションとして消滅させてしまう次元にほかならない。
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メモ
第一段落
広告のレトリックに関して書かれている
科学(一般の)に対する盲目的な共同の意識を利用している
具体的には美の象徴としての「花」が開花する過程をアナロジーとして使うことで美しい花と自分を重ね思い込ませる
深みという概念は、だから、一般的であり、それが現れない広告は一つもない
第二段落
過度のシュミレ
過度に見せかけようとすることで、偽りが露呈する滑稽な様子を喜劇に取り入れたモリエール喜劇を例に過度の振る舞いを揶揄
※外見によって中身が装われる、外見が大きな役割を果たした当時(17世紀後半の宮廷社会)の様子が反映された喜劇
第三段落
水と脂
美(清潔、純粋、新鮮さ)を保つように直感されるものは水である。
水は蒸発するため美を保つためには脂によって保たねばならない
閉じ込められ保持されて初めて水は役立つ
水は気化するはかない貴重なもの
この宣伝のささやかな精神分析の真のドラマは、深みの底への《液》と《成分》の到達を微妙に奪い合っている敵対する物質の争いである。
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28 占星術
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メモ
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第七段落
悪魔祓い
悪魔払いとは…数々の決まり文句でもって事をおこなう。そして理論的な決まり文句は、…闘っているはずの当の相手と決まり文句が共有する秘密の力をごまかすことによって、時としてなおさら大きな効果を発揮しつつその役割を演じるのである。(『マルクスの亡霊たち』)
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