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「辛い分良いことあるよ」は本当か? - Coggle Diagram
「辛い分良いことあるよ」は本当か?
逆に、良い時が続くと、この後悪いことが起こるのでは?と思う人はいらっしゃるんですかね?
幸せすぎて不安、というのはよくあります
そしてその不安は的中する
私の経験したことなのですが、先輩がすごく優しい人で、この人と毎日会えて幸せ、と思っていたのですが、その人は、私が少し自信をつけると嫌そうにしていました。
それで人間関係が崩れて、つらい気持ちになりました。つまり、不自然にいい関係でいたのが、逆に不幸への予兆だったという
たぶん、意思のない下っ端の状態の私が好きだったのかもしれないです
良いことが起こるとその分辛いことがある、というわけではなく、少しの辛さがとても辛く感じるので適度なバランスだと嬉しいなぁと思いますね、、、
そもそも、その後が怖くなるほど良いこと続きだったことがあまりない
私は旅行中など非日常で楽しい出来事があると、です。
補足ですが、日常の雨は「ちっ雨か」くらいなのに旅行中は「えぇ〜旅行中なのに〜」って思うので閾値が変わるなぁというくらいです。重大な幸せってどれくらいでしょうか… 思いつかないです。
重大な不幸って続きやすいけど、重大な幸せって続いて起こらないですよね
いいことと悪いことの起こるメカニズムが違う気がします。いいことは、いろいろな分野で独立して起こる感じ(仕事やサークル以外にも、くじで一等があたったり、カラオケで十八番ができたりしただけでも幸せ。ただ、仕事・サークル・くじ・カラオケは互いに関係ない)。悪いことは、自分にとって大事なことだけで固まって起こる気がする(仕事やサークルでの失敗や人間関係はつらい、でも、カラオケで上手く歌えなくても、くじが外れてもそれほどつらくない。仕事内での複数のファクターは互いに強い関係がある)。その結果として、辛いことは続けて起こるけど、幸せなことは続けて起こりにくい。
いいことと悪いことの閾値の話(sさん)とも関係していて、勉強での成功の基準がものすごく高くて(論文出すとか学会発表するとか)、それより下だと不幸と感じる。カラオケは、せいぜい素人の範囲でうまく歌いたいだけだから、少し上手く歌えただけで嬉しいのかも。
もし歌に関して勉強並みの幸せを求めると、オーディションに合格するぐらいかも
勉強など自分にとって大切なものは満足し難いということですかね
同じこと(ex.勉強)だけで考えると、どうか?
その視点だと、努力・投資としての辛いことと、結果としての良いことというものしかないような気がする
他の視点はないか?
趣味の話で申し訳ないですが、カラオケで、一回歌ってみてがっかりした曲と予想外に美味かった曲は同じぐらいかも
「つらいこと」と「いいこと」が同じぐらいではなく、「つらいぶんいいことあるもの」と、「つらくても報われないもの」が半々
具体的に言うと、10回同じ曲を練習して、うまくなる曲と、下手なママの曲が半々。
人間なんとか頑張って補ってる
楽しみが極度に達すればかえって悲しみが生じること.(乐极生悲)バランスとか
辛い分良いことあると思っておいて特になかったら悲しいので、あまり思わない派です。
辛いぶんよいことある、というときに、「辛いこととよいことが関連している(exp. 辛い勉強をすればするほど成績が良くなる)」というのと、「辛いこととよいことが同じぐらいの割合で存在する」というのの2パターンありそうです
この言葉では私は後者を想像しますね
後者について、ゲームのガチャで感じることがある。運が良い時期と悪い時期がある
統計の話みたいで申し訳ありませんが、後者は非常に長いスパンじゃないと起こらないので、短期的には理不尽に辛いことばっかり、ということは十分にありそうです
私は、昔は「辛いこととよいことは関連している」と思って受験勉強していましたが、それだと、報われなかった場合辛いので、今は辛さの中に楽しさを入れる(自分の好きなことを勉強する、仕事のコミュニティの中で好きな人を作る)というふうにして、つらさとよいことが関係がなくても失望しないようにしています。
私は因果の場合の辛いことはあくまで手段として捉えているのでその発想はなかったです
辛い分良いことあるよと考えるのは励ましになることもある。でも逆に良いことがないとガッカリする。
そうなんですよね。手段になるような辛いこと(勉強するなど)だと、辛いことというより投資みたいなものかもしれませんが、理不尽な辛さ(暴力とかハラスメントとか)だと、「その分良いことがある」と思って耐えることで、別の辛さを呼び寄せてしまいそうです(精神の不調とか成績の低下とか)。その意味で、「つらいぶんいいことある」は、時には理不尽を容認するようになりそうです
確かに〜〜〜と思いました
自分も思わない派。ただ、辛いこと続きだと、「良いこと」のハードルが下がるので、「良いこと」が起こりやすくはあるのかも
信号で青が多かったとか。
辛い時も、辛いと思わないようにしている。
結果ではなく、過程を重視するようにしている。
例えば、暗記するという行動は細胞の動きである。
筋トレみたいな理論だ・・
(知足常乐)不幸なことに出会っても、 幸せのほうに考えようにする、(自分の 要求を下がるとか)天然派、そうしたら、ずっと幸せですね
良いこと/辛いことの基準変わりがちです、変わらないorかわりにくい(常に冷静な判断)という方はどのように考えているのでしょう
冷静に判断したいときは、確率的に妥当かどうかで考えます。例えば、私は倍率3倍の面接を3つ受けて、最初の1つしか受かりませんでしたが、3回目の面接で落ちたときに、「倍率からして妥当だからいいか」と思いました。気持ち的には、また失敗かよ。と思ったのですが・・・
確率みたいに、客観的指標があると良いよね
「辛いことばかり」などの認識ができてしまうと、より行動も起こしづらくなって負のサイクルになってしまう
客観的な指標があると、そこから抜け出すチャンスかも
倍率などわかるものだとそれ使えそうですね!基準が変わりすぎて困るくらいのときは使ってみようかなと思います。私も今の〇〇さんのご意見にあったように負のサイクルにはまるときがあるので…
やっぱり意識的にやってる人もいるが、無意識にやっている人が多い。この基準をどこに置くかによって自分の状況も異なる。
「良いこと・悪いことの周期がある」という考えは、アジアならではの考えなのかな?世界の他の地域でもこのような考え方ってあるのかな?
日本人の幸福度はそんなに高くないというデータがある。良いこともあれば悪いこともあるという考えが根底にあるから。
生物時計みたいに、気持ちの時計、物事の時計があるかも。例えば、毎週の水曜日が自分が憂うつになる日。
たしかに、日によって、同じことでも幸せを感じにくい日があるのかもしれない。そうすると、たとえ確率的に良いことがある頻度とつらいことがある頻度が均一だとしても、主観的にどう感じるのかでいうと、辛いことといいことが同じ割合ではなくなるのかも
長いスパンでは、つらいことといいことの割合は五分五分に近づくが、主観的な面でのつらいこと、いいことの割合は、個々人の感性に依存する
不幸自慢をしている人にとっては人生苦ばかりなのかもしれない
のぞみさんの一言へのお返事ですが、不幸自慢をしている方は、不幸だと言うことで周りから優しくされたいという意図があるように思います(実際に辛いと思っているかどうかとそう周りに言っているかは別なのでは?という考え)
不幸自慢について、「自分は不幸だ」というストーリーを作ると、はじめはかまってほしいからであっても、次第に、些細なことまで不幸なことのリストに入れだして、辛いと感じる頻度が高まりそうです
不幸なことがアイデンティティになってしまうと辛いですよね
逆に不幸をネタとして捉えられれば辛くなくなるかも?!
Twitterのネタにしてしまえ!みたいなことですか?
〇〇さんのご意見に対してですが、Twitterのフォロワー数がとても多くてよくバズる友人が「ネタにできるからあんまり落ち込まなくなった」と言っていました
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3浪以上していた人が、浪人の自虐アカウントを作っていて、やっと受かったのに、今度は大学で留年したり、就活で失敗したりしていました。この場合は、不幸が不幸を呼んでいるのかもしれません。一方で、不幸からの回復(毒親に育てられたけど、結婚して幸せな家族を作りました)ということをネタにして応援してもらっている人もいましたね
やはり、不幸の使い方が鍵なのかもしれません。不幸自体をネタにするか、不幸から回復していく自分をアイデンティティにするか
不幸をネタにできるだけまだマシなんじゃないかと思います。不幸を他人に打ち明けられる(のぞみさんの言う自慢)だけまだマシで、本当につらい人は不幸を自分の胸の内に抱え込んでしまい、どんどんつらくなってしまうと思います。私は不幸自慢をしている人を見ると、「あー、この人は幸せなんだろうな」と思います。
わかります
聞いてくれる人がいる、という点で幸せかも
「つらいぶんいいことある」というのは、それ自体がポジティブな思考だけれど、それを信じたポジティブな人だけが実現できる言説なのかも。逆に言うと、「つらいぶんいいことある」と思えない人は、辛いぶんいいことある状態にならない
信じるものは救われる的な言説なのかも