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特別講義 (2018/7/17 (3/28のお言葉「悪人正機」悪人正機の悪人は、三毒五欲の煩悩で作る悪人ではない。十方世界の逆謗闡提の極悪人だったと…
特別講義
2018/7/17
3/28のお言葉「悪人正機」悪人正機の悪人は、三毒五欲の煩悩で作る悪人ではない。十方世界の逆謗闡提の極悪人だったと照らしだされなければ、絶対の悪は知られない。
質問 三毒五欲の煩悩で作る悪人とは、歎異抄第1章の「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」でしょうか
答え 違います。罪悪深重・煩悩熾盛の衆生は、逆謗闡提の極悪人のことです
質問 歎異抄3章の「煩悩具足のわれらは」の煩悩具足は、逆謗闡提の極悪人のことでしょうか」
答え そうです。歎異抄の悪人は皆、逆謗闡提の極悪人のことです
逆謗闡提の極悪人=絶対悪=歎異抄でいわれる悪人
絶対悪
絶対の弥陀の光明に照らしだされた実機
親鸞聖人は「絶対不二の機」と教えられている
金剛の信心は絶対不二の機なり(行巻P316)
一機一法といわれる「一機」
全人類は一機。一つ絶対悪の極悪人
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本願から漏れている。唯除されている悪人
阿弥陀仏の本願は十方衆生は一機
釈迦が阿弥陀仏の本願を説かれるために一切経をとかれた
機毎機毎
はじめから全人類は一機といっても誰もわからない。そのためにその人その人に応じてどういう悪か=相対悪
それで八万四千の法門、七千余巻となった=無限
八十一品
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一切経
おおよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門という。これを仮門となづけたり。この要門・仮門というは、すなわち『無量寿仏観経』一部を説きたまえる定善・散善これなり。
定善は十三観なり。散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり。これを仮門ともいう。
この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらえて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海におしえすすめ入れたもうがゆえに、よろずの自力の善業をば、方便の門と申すなり。
一念多念証文 P609
「なぜ生きる」ではどのように教えられているか
イタリアの童話、ロウソク、ランプ、電気、太陽
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おおよそ八万四千の法門とは
一切経
浄土の方便の善なり、とは
浄土=阿弥陀仏
阿弥陀仏が一機一法の本願に入れるための方便
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要門とは
ここを通らねば一機一法の本願にあえない。あってもなくてもよいものではない。絶対に必要な教え
仮門とは
方便、仮。これに対して真実、真
仮から真に入る。仮とは釈迦弥陀の方便
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すすめこしらえて、とは
阿弥陀仏の本願あわせるため釈迦の種々の方便
一朝一夕で絶対の一機一法を知らせることはできない釈迦は一切経、一代かかっておられる。
南無阿弥陀仏に一切経がおさまる、南無阿弥陀仏をひらけば一切経になる。私たちに名号知らせるために説かれた。
このゆえに一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり
すべての人は一機。どういう姿をしていると知らされるのか
一つには決定して「自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、耾劫より͡͡已来、常に没し常に流転して出離の縁有ること無し」と深信す。(機の深信)
深信とは
私はこういう者であったと知らされた一機の姿。三毒五欲の煩悩で作る悪人とは違う。
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ひっかかるところがたくさんある
「曠劫」は三世がわからないとわからない。「常に」もひっかかる
三毒五欲の煩悩で作る悪人とは
戦争に勝つために何万人も犠牲にした人
チャーチルは25万人、スターリンは60万人、もし100万人200万人犠牲にした人がいるならチャーチルやスターリンは善人になる。それが相対悪
相対悪
煩悩で作る悪。比べるものによって善にもなる
一機ではない。一機にならない
三毒五欲の煩悩で作る悪人は相対悪、一人ひとり違う。同じ重さの悪はない。違いがある。同じ人は一人もいない。
お言葉「声と文字」声は心の響きなり。文字は心の影なり。
質問 声とは聞いている人か、説かれている人か、阿弥陀仏の声か、いずれでしょうか。
親鸞聖人、高森先生が書かれているものを拝読するのは仏縁になるが、聴聞は直のお声で聴く。
御著書を拝読するのはあくまでも影です。
聴聞で聞かせていただくことも、ご著書で教えられていることも同じであるならば、違いはないのでは?という人がいるが、直接お声で聴かせていただくことが大事である。
お言葉「氷上燃火」氷の上に薪を焚くほど、氷が溶けて、火は早く消える。この場合、火を早く消すには、火は激しく燃やすほどよい。弥陀の19願の修諸功徳を勧められた仏意は、自力の火を早く消すためである。
質問 氷上燃火の例えは、自力の善を勧められるのは、早く自力を捨てさせる為と教えていただきました。「善に向かって進む」というのは誤りであると以前、お聞きしました。氷上燃火の例えでどのような関係でしょうか。
氷の上だと燃やせば燃やすほど火は早く消える。自力一杯求めるほど自力は早くすたる。善を一生懸命すれば宿善が厚くなる。
「善に向かって進む」が誤りと教えられるのは、正しくは「光に向かって進む」です。光は大いに使いなさいと仰った。いろいろな解釈、理解ができる。光とは18願です。
善とは19願、善に向かって進むだと諸行往生になる。18願は浄土往生です。善に向かって進むは誤りで、光に向かって進むというべきである。