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明るい部屋 (明るい部屋 (2 分裂しがたい「写真」 (p10 (指向対象(そこに写っているもの)p10 (指向
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明るい部屋
明るい部屋
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5 撮影される人
p18
しかし私はたいていの場合、承知の上で(あまりにもしばしば気の向くままに)写真を撮ってもらっている。
ところで自分がカメラを通して眺められていると感じるやいなや、事態は一変する。私はしきりに《ポーズをとり》、またたくまに自分のもう一つの肉体を作り上げ、前もって自分を映像に変身させる。「写真」のこの変換作用は強力である。p19
9 二重性
p34
その存在(その《冒険=不意の到来》)は二つの要素、つまり兵士と修道女が共存していることから来る、ということを私はとっさに理解した。この二つの要素が同じ世界に属していないという意味では不連続であり異質である(二つの要素が対照をなすほど異なっている必要はない)。私は(自分自身の目でとらえることのできる)ある構造的規則が存在するのではないかと感じ
10 「ストゥディウム」と「プンクトゥム」
p38
共時示的意味(コノテーション)
「デノテーション」と「コノテーション」
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ex)ナチス全盛時代にいわれた「ユダヤ人はユダヤ人だ」という表現において,
最初の「ユダヤ人」は「ユダヤ民族に属する人」というデノテーションであり,
2つ目の「ユダヤ人」は当時の反ユダヤ主義が生み出した「けちで不正直な人間」というコノテーションである。
11 「ストゥディウム」
p40
ストゥディウムは、中途半端な欲望、中途半端な意思しか動員しない。それは、人が《すてき》だと思う人間や見世物や衣服や本に対していだく関心と同じたぐいの、呆然とした、あたりさわりのない、無責任な関心である。
14 不意にとらえること
p47
不意打ち
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⑤ある《自然な》情景である。
ex)アンドレ・ケルテス
ある"回教国"の首長が民族衣装を着てスキーをしているところである。
※回教国、つまり、イスラム教(マホメット教ともいう)を国教としている国である。
インドネシア、マレーシア、バングラデッシュ、パキスタン、イラン、イラク、アラブ連合諸国。
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37 停滞
p112
「写真」は《現代的》なものであり、われわれの最も日常的な今日生活に溶け込んでいるが、そうはいっても「写真」のうちには、いわば時代遅れの謎めいた点、不思議な停滞、一時停止という観念の本質そのものが含まれているのである(スペインのアルバセート〔ムルシア〕地方、モンティエル村の住民たちは、新聞を読み、ラジオを聞いてるにもかかわらず、一時停止した昔の時間にとどまって暮らしている、ということを私は何かで読んだことがあるが、それと同じである)。
「写真」は、本質的には決して思い出ではない(思い出を表す文法的表現は完了過去〔現在とつながりを持つ過去〕であろうが、これに対して「写真」の時間は、むしろ不定過去〔現在とつながりを持たない絶対的な過去〕である)。
47 「狂気」、「憐れみ」
p140
ところで、私が「写真」において措定するのは、単に対象の不在だけではない。それと同時に、それと並んで、その対象が確かに存在したということ、その対象が写真に写っているその場所にあったということも措定する。ここにこそ狂気があるのだ。というのも、今日まで、他のいかなる表象=再現物も、何らかの仲介物によらないかぎり、事物の過去を私に保障することはできなかったのだが、しかし「写真」の場合、私の確信は無媒介的(直接的)であり、この世の誰もその確信を私に捨てさせることができないからである。そこで「写真」は私にとって、ある奇妙な媒体となり、新しい形の幻覚となる。それは知覚のレベルでは虚偽であるが、時間のレベルでは真実である。「写真」はいわば、穏やかな、つつましい、分裂した幻覚である(一方においては、《それはそこにない》が、しかし他方においては《それは確かにそこにあった》)。「写真」は真実を擦り写しにした狂気の映像なのでである
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48 飼い馴らされた「写真」
p146
つまりそこには、事物の流れを逆にする本来的な反転運動が生ずるのであって、私は本書を終えるにあたり、これを写真のエクスタシーと呼ぶことにしたい。
以上が「写真」の二つの道である。「写真」が写してみせるものを完璧な錯覚として文化的コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる手に生えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。
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