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学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史 ハワード・ジン R.ステフォフ編著 (奴隷制 (ハリエット・タブマン (元奴隷, 地下鉄道,…
学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史
ハワード・ジン
R.ステフォフ編著
南部の裕福な大農園主が最も恐れていたのは、黒人奴隷と貧困白人とが結束して、第二のベーコンの反乱を起こすことだった。
そこで白人と黒人とが手を組むのを阻止する方法の一つとして、人種差別主義が使われることになったのだ。
上 p.54
エドマンド・モーガンはその著作『アメリカの奴隷制とアメリカの自由』で、人種差別は、黒人と白人のちがいからもたらされる〈自然な〉感情ではなかった、と書いている。
いや、むしろ、白人指導者が、黒人への否定的な見方をことさら強調したためである、と。
もしも貧しい白人が黒人を見下げていたとしたら、両者が協力して反乱を起こす恐れを心配する必要など、そもそもなかったはずなのだ。
上 p.54
メキシコ戦争時のアメリカのアメリカ人
上p.119-
詩人
ウォルト・ホイットマン
アメリカ自由詩の父
〈アメリカは拡張するだけでなく、圧倒する術も心得ているのである!〉
ジェームズ・ラッセル・ローウェル
反戦詩
この戦争の理由はただ一つ、〈あらたな奴隷州を引っ張り込むため〉
ヘンリー・デイヴィット・ソロー
『ウォールデン 森の生活』
メキシコ戦争に反対
人頭税を払わないことで抵抗をした。
投獄される。
本人に秘密で友人が納税したためすぐに釈放される。
刑務所には一晩しか入れられなかった。
2年後
『市民的不服従』
法と正義の違いについて
〈法はけっして人をより正しくするものではない。
法を順守することにより、善意のものまでが日々、不正義の実践者とされてしまうのだ。
われわれがよく目にする兵士の隊列こそ、不適切な法を守ったことによる道理上の成り行きである。
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ジャーナリスト
ホラス・グリーリー
≪ニューヨーク・トリビューン≫
≪リベレーター≫
奴隷制廃止派の新聞
メキシコの〈このうえなく堂々たる勝利〉を望む
作家
フレデリック・ダグラス
元奴隷
奴隷制廃止論者
この戦争は〈不名誉で残酷である〉
奴隷制
ジョン・ホープ・フランクリン
歴史家
『奴隷制から自由へ』
ジョン・リトル
元奴隷
奴隷は幸せそうだな、と人から言われた。何故なら、奴隷はよく笑い、陽気だからだ。
三、四人の仲間とともに、わたしも昼間には200回むちで打たれ、足かせをはめられていた。
それでも夜になると、歌って踊り、鎖をガチャガチャいわせ、他のみんなを笑わせた。
だからこそ、奴隷は幸せだと思われたりしたのだ!
そうしていたのは苦しみを紛らわせ、心が完全に破壊されないようにするためだった。
それこそが、嘘偽りのない真実だったのだ!
上p.130-
ハリエット・タブマン
元奴隷
地下鉄道
「自由になりなさい。さもなければ殺されます」
デイビッド・ウォーカー
『ウォーカーの訴え』
われらが敵に虐殺を続けさせ、同時に彼らのコップには、なみなみと酒をついでおこう。
道がはっきりと見えてくるまで、われわれは自由や人権を得ようとしてはならない。
時機が到来したときにこそ、恐れず、ひるまず行動せよ。
神は喜んで(白人と)同じく我々にも、二つの目、二本の手、二本の脚、そして頭には分別を与えたもうた。
彼らを奴隷にしておく権利が我々にないように、彼らにも我々を奴隷にしておく権利はない。
誰にでもよい時代があるものだ、という言い回しがあるが、あのアメリカ人たちの全盛期は終わりかけているのだ。
南部の奴隷所有者
激昂する
ウォーカーを捕らえるか、殺した者には賞金が出されることになった。
1830年夏のある日
ウォーカーは自分の店のドア近くで、死体となって発見された。
奴隷の息子
ボストンで古着商になる
フレデリック・ダグラス
奴隷として生まれる
読み書きを覚えた
21歳の時に北部へ逃亡する。
奴隷制廃止論者
最も名の知られた黒人男性となる
〈いつか自由な人間になるという思い〉は、〈奴隷制の持つあらゆる威力〉をもってしても、くじくことのできない夢である、と説いた。
W.E.B.デュボイス
黒人の学者
アトランタ大学で教鞭をとっていた
黒人に対する裏切りを、アメリカで起きつつあるより大きな現象、つまり搾取の表れだ、とみなした。
そして黒人だけでなく貧しい白人もまた、政治家や強力な事業家から不当に利用されている、と考えたのだ。
上p.143
「我々貧しき者は、多くは所有できないかも知れない。
それでも言論の自由がある。
そして、何ものにもそれを奪うことはできないのだ」
上p.157
19世紀後半のアメリカでは、人類史始まって以来の飛躍的な経済成長が続いていた。
成長から生み出される富は、ピラミッドに似た構造を作っていた。
そのピラミッドを実際に建設して支えているのは、黒人、白人、中国やヨーロッパからの移民、女性という労働者層で、頂上には、新しい大富豪である億万長者が鎮座していたのだ。
上p.161
教会、学校、そして政府は、現在の社会こそが正しいのだ、と説くことで、人々の考えを統制しようとした。
貧困とは、個人的な怠慢の結果であり、裕福なものは裕福であるにふさわしいことをしている。
そして資本主義体制は正しく、適切である、と教えたのだ。
上p.166
政府は、現体制に異議を唱える声を何とかして黙らせようとした。
そのために、さまざまな改革がなされた。
愛国心を煽り、批判を握りつぶすために、戦争までが利用された。
下p.30
政治の世界では、現在の政府や社会秩序、経済体制を続けていきたいと考える人々を、保守派と呼ぶ。
保守派は、治安の確保や政治的安定性、確立された体制に価値を置く傾向がある。
一方、リベラルとは進歩を支持し、時には変革を求める人々であり、極端な変革を目指している場合には、ラディカル(急進派)と呼ばれたりする。
リベラルは個人の権利、市民としての自由、政治への直接参加を尊重する傾向がある。
そして、保守派の立場は右派、リベラルの立場は左派と呼ばれている。
下p.58
南部各地では、幼い黒人の子どももデモに加わった。
奴隷制の名残がまだ色濃いジョージア州のオールバニーという小さな町で、黒人がデモ行進をし、大衆集会を開いた。
参加者を逮捕した警察署長が、逮捕者の名前を書き留め始めた。
そのなかに、九歳ぐらいの少年がいた。
「お前の名前は?」警察署長が尋ねると、少年は所長をしっかりと見据えて答えたという。
「フリーダム、フリーダムだ」と。
新しい世代が、権利を勝ち取るための方法を学びつつあったのだ。
下p.71
1960年代から70年代はじめにかけて
生徒も親も教師も、伝統的な教育方針に疑問を抱き始めた。
それまでの教育では、愛国心を持ち権威に従うことが大切だ、と説きながらも、女性や有色の人びとをないがしろにしたり見下げるようなことを、あらゆる世代に教えていたのだ。
体に障害のある人々も影響力を持つようになり、自分たちを差別から守る法律の制定を働きかけ始めた。
下p.105
チャールズ・ハットー
ベトナム戦争
ミライ地区での虐殺に加わった元兵士
アメリカ軍の一中隊が、数百人の女性や子供を銃殺した事件
〈当時わたしは19歳で、年長者に命じられたことには黙って従え、と教えられていました。
でも、今だったら自分の息子たちに言うでしょう――もしも政府に要請されたのなら、行って祖国のために尽くせ。
だが、時には自分で判断しろ、国のことは忘れて、自分の良心に従え、と。私は知りませんでした。
ベトナムへ行く前に、誰かにそう教えてもらっていたら、と思います。
今では、戦争と呼ばれるものはあってはならない、とさえ考えています。
何故なら、戦争は人の心をめちゃめちゃにするからです〉
下p.139
国民は、心理的にも経済的にも不安定な中産階級を境として、極端な富裕層と極端な貧困層とに引き裂かれていた。
それでも、抵抗精神や抗議の気風は生き残っていた。
もっと平等でもっと人間らしい社会を作りたい、
と願う人々はいまだ健在だったのだ。
未来に希望があるとしたら、
アメリカの希望はそうした人々にかかっている。
下p.145
抗議集会の参加者たちは、自由貿易協定に反対していた。
それは、環境保護のための法律に縛られずに操業できる場所と安い労働力を見つけるために、大企業が世界中を荒らしまわることを許すものだ、という理由からだった。
自由貿易には複雑な側面があるが、抗議者たちはシンプルに問いかけたのだ―世界中の普通の人々の健康と自由とが、大企業の金もうけのために犠牲にされて良いのだろうか、と。
下p.157
〈どんなに悲しくとも、われわれは復讐は叫ばない〉
下p.169
〈戦争ではなく正義を〉
下p.169
「よく、«彼らは命をささげた»と言われますが、兵士たちは命を捧げてはいませんでした。
命は奪い取られたのです。
我々の生活から戦争をなくす方法――おそらくそれは新しい宗教観なのでしょう――をみつけることはできないとしても、せめてこのメモリアル・デーを、戦争で散ったものを偲ぶだけではなく、これから死ぬかもしれない若者の命を救う方法を考える日にしたいと思うのです」
アンディ・ルーニー
コメンテーター
5月30日
メモリアル・デー
第二次世界大戦の帰還兵であると視聴者に打ち明ける。
下p.184
フェミニズム
シャーリー・チザム
黒人女性初の連邦下院議員
1960年代
法律は、我々女性のために何もしてくれない。
我々自身で変えなければならないのだ。
この国の女性は革命家になり、時代遅れの古めかしい役割や固定観念を拒絶しなければならない。
女らしさにまつわる古臭くて否定的な考えを、前向きな思考、積極的な行動に置き換えていかなければならないのだ。
下p.97
1960年代
女性解放運動
ウーマン・リブ
女性に対する差別をなくし、抑圧からの解放を目指す活動
男女同権主義
フェミニズム
«自己発見»
自分に影響を与えている事柄は何なのか?
女性自らが昔ながらの役割を考え直し、女は劣っているという観念をはねのけ、新たに自信を獲得して、女性同士の連帯を強めていったのだ。
下p.97
ベティ・フリーダン
『新しい女性の創造』
フェミニン・ミスティーク
ミスティーク
女性は自分自身の夢はあきらめ、母や妻としての立場に100%満足しているという、社会が抱くイメージのことだ。
このイメージに合わせて生きようとすると、数多くの女性たちが、途方に暮れたむなしい気持ちを抱くことになった。
女性が自分を発見し、一個の人間たる自己を確立するための唯一の方法は、男性と同じく、女性自身が創造的な仕事をすることである。
ジョニー・ティルモン
全国福祉保護権協会
全ての女性が自分の足で歩きだすまで、女性の解放はあり得ない
生活保護は交通事故に似ている。
誰にでも巻き込まれる可能性があるが、とりわけ女性が巻き込まれやすい。
だからこそ、生活保護とは女性の問題なのだ。
この国の中産階級の女性の多くにとって、女性解放は大きな関心ごとだろう。
しかし、生活保護を受けている女にとっては、まさに生存に直結した問題なのだ。
もしも女性が自分を解き放ち、男と女が互いに相手に共感し始めたら、男も女も、自分たちを抑圧しているものは外側にあるのだ、ということに気付くのではないか?
おそらく、家族や親しい人間関係は、より大きな体制に抵抗しうる、勇気ある集団になりうるのだ。
そのときこそ、男と女――もちろん子どもも含めて――はともに手を携えて、社会を変えていけるのではないだろうか?
下p.99