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『戦後70年と作家たち』 2015年度 世田谷文学館コレクション展 (海野十三 敗戦日記 「戦争と日常、過去と現在」 柴崎友香…
『戦後70年と作家たち』
2015年度 世田谷文学館コレクション展
作家たちのコトバ
2015年
戦後70年
作家たちは時代をどのように見、生き、
再生への道のりへと向かったのか?
戦時中
本土空襲
原爆投下
広島
長崎
敗戦
連合国軍による占領
極限状態
死と隣り合わせ
あらゆる価値観が激変していく混沌の日々
三島由紀夫
1925-1970
戦争中異常な執着で僕らの世代の少数の者は、文学にしがみつき、その純粋を念じてきました。文学純粋宗ともいふべき狂信的な宗派に身を投げ入れました。そして時代のあらゆる愚劣さと不純さから、何とかしてその純美を守らうとして来ました。(中略)僕は文学の永遠を信じてゐます。それがあまりにも脆く美しく永遠に滅びつつある故です。僕は文学の絶えざる崩壊作用の美しさを信ずるのです。作者の身が粉々になる献身の永遠を信ずるのです。
1946年の木村徳三あて書簡より
少年時代から鋭い感受性による文才を表し、1944年、処女作『花ざかりの森』を出版。翌年、20歳の時に疎開先の世田谷で敗戦を迎える。戦後本格的な作家生活に入る。
斎藤茂吉
1882-1953
沈黙のわれに見よとぞ 百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ
『小園』より
戦争謳歌の作品を作り続けた歌人・斎藤茂吉は、青山の自宅と病院を空襲で焼失し、故郷山形で敗戦を迎えた。掲載作は悲憤と虚脱のうちに過ごした日々の中で生み出された一首。
佐藤愛子
1923-
私の「青春」は独身に戻った二十五歳から始まる。戦災で焼け爛れた東京は、私には限りない可能性に満ちている浴野に思えた。何よりもそこには「自由」があった。これからはいいたいことがいえ、したいことが出来るのだった。自分以外の者の意思で生かされまいとすればそれが出来るのだった。
私は小説を書いて生きていこうと思った。
『こんな老い方もある』より
戦時下に結婚して子供を産み、戦後まもなく離婚。戦中・戦後は自らの激動時代でもあった。亡き父・佐藤紅緑の「あの子は文才がある」という一言に肩を押され、作家を志す。
椎名麟三
1911-1973
この生活をはじめるのだ。今日一日の生活をはじめるのだ。そして人類は、長い歴史を通じてそうしてきたのではなかったか。瞬間、瞬間にはじめ、一日、一日にはじめ、永遠にはじめているのではなかったか。たとえはじめることのなかに滅ぶのが人類の運命であっても。そう。生活、それ以外に大切なものは何一つありはしないのだ。
『永遠なる序章』より
幼少から苦労を重ね、職業を転々とする下積みの青春時代を過ごす。戦後の社会不安を背景に、人間の存在や思想の意味を懐疑し、現代における生の可能性を問う。
黒澤明
1910-1998
我々は、自分にしろ自分のものにしろ、すべて卑下して考えすぎるところがあるんじゃないかな?『羅生門』も僕はそう立派な作品だとは思っていません。
だけど、「あれは、まぐれ当たりだ」なんて言われると、どうしてすぐそう卑屈な考え方をしなきゃならないんだって気がするね。
どうして、日本人は自分たちのことや作ったものに自信を持つことをやめてしまったんだろう。
1951年、『羅生門』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞したときの談話
『羅生門』のヴェネツィア国際映画祭金獅子賞(グランプリ)受賞は、戦後の日本人に、古橋広之進の競泳世界最高記録と、湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞とともに、希望と公明を与えた。
海野十三
1897-1949
この原子爆弾は、今後ますます改良され強化されることであろう。その効力はますます著しくなる事であろう。
戦争は終結だ。
ソ連がこの原子爆弾の前に、対日態度を決定したのも、うなずかれる。これまでに書かれた空想科学小説などに、原子爆弾の発明に成功した国が世界を制覇するであろうと書かれているが、まさに今日、そのような夢物語が登場しつつあるのである。
『海野十三敗戦日記』1945年8月10日の記述より
日本SFの父
軍事科学小説を量産したことによる自責の念から、終戦後、一家自決を図る。思いとどまったのちは、子供向け科学小説の執筆に情熱を傾けた。
横光利一
1898-1947
八月-日 茎のひょろ長い白い干瓢の花がゆれている。私はこの花が好きだ。眼はいつもここで停ると心は休まる。敗戦の憂きめをじっと、このか細い花茎だけが支えてくれているようだ。私にとって、今はその他の何ものでもないただ一本の白い花。それもその茎のうす青い、今にも消え入りそうな長細い部分がだ。――風はもう秋風だ。
『夜の靴』より
空襲が迫る世田谷の自宅から妻の郷里の山形へ疎開した横光はここで敗戦を迎える。『夜の靴』では敗戦の衝撃と深い悲しみから再生しようとする日々をつづった。
山田風太郎
1922-2001
そして日本人もいまの日本人がほんとうの姿なのか。また三十年ほどたったら、いまの日本人を浮薄で滑稽な別の人種のように思うことにはならないか。いや見ようによっては、私も日本人も、過去、現在、未来、同じものではあるまいか。げんに「傍観者」であった私にしても、現在のぬきがたい地上相への不信感は、天性があるにしても、この昭和二十年のショックで植え付けられたと感ずることが多大である。人は変わらない。そして、おそらく人間のひき起こすことも。
『戦中派不戦日記』刊行のあとがきより
敗戦の年に書き記していた日記を20余年の歳月を経て『戦中派不戦日記』として発表。大きな反響を呼んだ。山田は自らを「戦中派」と位置付け、終生この言葉にこだわった。
石川達三
1905-1985
これからさき、また大きな戦争が起こるかもしれないし、そうなったら世の中は、今よりももっとひどい事になるかもしれないが、しかし、どんな時代が来ても、人間の心の奥底にある、孤独感というか、一人きりでは生きていけない、誰かを愛し、誰かを信じないではいられない、そういう本質的な弱さ、……弱さと言ってもいいだろうね。
……そういうものの美しさを信じることはできるんだよ。
『風にそよぐ葦』より
日本人のブラジル移民を描いた『青亡民』で1925年、第一回芥川賞。13年の『生きている葦』掲載誌は発禁処分に。戦後は、社会の不正や腐敗に立ち向かう反骨の社会派作家として活躍。
北杜夫
1927-2011
彼の生を受けた国は敗れた。病院は焼け、息子の音沙汰はなく、娘は怪我を負い、生涯の最後の仕事と思っていた資料は失われた。わずかに山河だけが残されていた。幼少期を過ごした、懐かしい、かりそめならぬ山河が。
『楡家の人びと』第三部より
文学に開眼した18歳で敗戦を経験。1964年、東京オリンピック開催の都市に刊行した『楡家の人びと』がベストセラーに。時代と戦争に翻弄される登場人物たちは、自身と一族がモデル。
坂口安吾
1906-1955
人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。(中略)
そして人のごとくに日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。
『堕落論』より
空襲下の東京に残り、終戦、戦後の混沌の中で『堕落論』を発表。既成概念からの解放と主体的な生き方を示唆した力強い言葉は大きな反響を呼ぶ。
社会背景
1930年代
1931年
9月
満州事変
昭和6年
1932年
昭和7年
3月
満州国建国
5月
五一五事件
1933年
昭和8年
1月
ヒトラーがドイツ首相に就任する
3月
日本が国際連盟から脱退する
1935年
昭和10年
9月
石川達三『青亡民』
第一回芥川賞
1936年
昭和11年
2月
二二六事件
1937年
昭和12年
7月
盧溝橋事件
日中戦争始まる
1938年
昭和13年
4月
国家総動員法公布
1939年
昭和14年
9月
第二次世界大戦始まる
1940年代
1940年
9月
日独伊三国同盟締結
10月
大生翼賛会結成
11
紀元2600年祝賀
昭和15年
1941年
昭和16年
12月
パールハーバー
日本海軍によるハワイ真珠湾奇襲攻撃
第二次世界大戦始まる
1942年
昭和17年
6月
ミッドウェー海戦
1943年
昭和18年
2月
ガダルカナル島撤退開始
5月
アッツ島玉砕
6月
勤労動員命令
1944年
昭和19年
6月
ノルマンディー上陸
連合軍
7月
サイパン島玉砕
8月
学童集団疎開始まる
10月
レイテ沖海戦始まる
11月
B29による東京への初空襲
1945年
昭和20年
3月
東京大空襲
4月
沖縄戦開始
5月
ドイツ無条件降伏
8月
原爆投下
広島
7日
長崎
9日
ソ連が日本に宣戦布告をする
15日
日本無条件降伏
日本にとっての「終戦の日」だが、
沖縄戦はまだ続いていた。
9月
日本政府及び連合国代表が降伏文書に調印する。
第二次世界大戦終結。
10月
GHQ
連合国総司令部
日本は占領される。
1946年
昭和21年
1月
天皇の人間宣言
5月
東京裁判始まる
11月
日本国憲法公布
1949年
昭和24年
11月
湯川秀樹
理論物理学者
ノーベル賞受賞
日本人初
1950年代
1950年
6月
朝鮮戦争勃発
7月
レッドパージ始まる
昭和25年
1951年
昭和26年
9月
日米安全保障条約調印
『羅生門』
ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞受賞
1952年
昭和27年
4月
サンフランシスコ講和条約が発効し、
日本の主権が回復。
1953年
昭和28年
7月
朝鮮休戦協定調印
1954年
昭和29年
3月
第五福竜丸被爆
ビキニ湾
アメリカ水爆実験
7月
自衛隊発足
陸海空
1956年
昭和31年
12月
日本の国際連合加盟が承認される
1958年
昭和32年
12月
東京タワー完工式
1959年
昭和33年
4月
皇太子結婚パレードテレビ中継
1960年代
1960年
6月
安保闘争
空前の高揚
新安保条約自然成立
12月
国民所得倍増計画決定
昭和35年
1963年
昭和38年
11月
ケネディ大統領暗殺
1964年
昭和39年
4月
日本がOECDに加盟する
先進資本主義国の一員になる
先進国って、「先進資本主義国」って意味だったのか。
10月
東海道新開線開業
東京オリンピック
日本地図センター
今日マチ子
いま、「戦争」を考えるためのおすすめ本5冊
『浮雲』
林芙美子
『野火』
大岡昇平
『アドルフに告ぐ』
手塚治虫
『夜と霧』
ヴィクトール・E・フランクル
『夕凪の街 桜の国』
こうの史代
海野十三 敗戦日記
「戦争と日常、過去と現在」
柴崎友香
日記は、日本本土への空襲が頻繁になった昭和19年12月から「空襲都日記」と題されて始まる。記録して後世に伝えたい意志が強く感じられ、敵機の種類、数、地名や被災状況が細かく書かれている。
理工学部出身の技術者で、科学小説を書いていた海野は、昭和13年にすでに、東京が大規模な空襲を受けることを予見して「東京空爆」という小説を発表していたし、原子爆弾が完成・使用されることに危惧を抱いてもいた。攻撃を分析し、どう対策するかを再三記しているが、それに反するような政府の非合理的なやり方にかなり苛立っていた。
海野十三の日記に出会ったのは、わたしが大阪から東京に引っ越して間もない2006年のはじめだった。
当時住んでいた世田谷区若林から渋谷行きのバスに乗ると、大橋で「日本地図センター」が見える。そこに小説の資料を探しに行ったとき、「地図中心」という冊子で、同じ若林に住んでいた海野十三の戦時中の日記が取り上げられていたのだった。
日記からうかがえる律儀で生真面目な性格から、科学者、作家としての見解と、国民として戦争に協力することの矛盾に引き裂かれそうになっていたのではないだろうか。昭和20年5月にヒトラー死亡の報を聞いてからの日記は、「降伏日記」と題されている。
読み進めると、父親として、嫁いだばかりの娘やまだ小学生の息子たちを案じ、近隣や友人を気遣う、一個人の心境も見えてくる。
都電や玉川線などの運行状況も具体的に書かれ、渋谷から三軒茶屋で乗り換えて下高井戸行きを待つ風景が書かれている。当時毎日のように乗っていた世田谷線の光景そのままだった。日記にある近隣の人と同じ名前の古い表札も、実際にそこなのかはわからないが、散歩していると見つかった。
空襲があり、苦しい生活があったのは、今歩いているこの場所だった。わたしたちが生きているこの街を、当時の人たちが爆弾から逃げ、食べ物を必死で手に入れながら生きていた。現在の世田谷の風景に、それが重なって見え、戦争は日常だと感じるようになった。
ある日、突然「戦争」という別の世界になるのではなく、日常がだんだんと戦争になり、異常な状況に慣れていく。
戦後70年のこの夏、海野十三の出身地・徳島の文学書道館でも戦争に関する展覧会があり、日記と遺書の実物を見ることができた。日記は、粗末な紙を綴じた小型で横長の帳面に鉛筆で縦書きされていた。質の良い紙は手に入らなかったのだろう。
海野は終戦前日に一家心中を決意している。遺書は筆書きで、日記にある通り、親類や近所の人の名前が並んでいた。疲れ果てていたうえ、気配を察した友人に止められて、それは実行されなかった。何度読んでも、わたしは一家心中しようという彼らの気持ちがわからない。その気持ちが理解できるような、世の中の状況にしてはいけない、と強く思う。
戦時中の自殺率はどれくらいだったんだろう。