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歴史随想 『あかとんぼ負われて見たのはいつの日か』赤とんぼの詩人・三木露風と その母、碧川かたのこと 川村善次郎 …
歴史随想
『あかとんぼ負われて見たのはいつの日か』赤とんぼの詩人・三木露風と
その母、碧川かたのこと
川村善次郎
『戦争のきずあと・むさしの』
第63号 2018年3月6日発行
三木露風
1889-1964
三鷹市
象徴派の詩人
北原白秋
1885-1942
「赤とんぼ」
作曲
山田耕筰
1886-1965
日本語の美しさを歌曲に表現した名作
兵庫県
三鷹市に縁のある文化人の一人に、三木露風がいます。北原白秋と並び称された象徴派の詩人です。
その名は知らなくても、露風が作詩した童謡「赤蜻蛉」は、日本語の美しさを歌曲に表現した名作として、多くの人々に親しまれ、歌い継がれてきました。
夕焼 小焼の あかとんぼ
負われて見たのは いつの日か。
山の畑の 桑の実を
子籠に摘んだは まぼろしか。
十五で姐やは 嫁に行き
お里のたよりも 絶えはてた。
夕やけ小やけの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先。
「樫の実」大正10年8月 与田準一編
『日本童謡集』岩波文庫
三木露風は兵庫県揖西郡龍野町の出身です。名は操(みさお)。父の三木節次郎は九十四銀行の行員。母のかた(1869-1962)は、鳥取藩城代家老の和田邦之助の次女ですが、藩重臣の養父・堀正が、龍野に在勤したことから、龍野町長で九十四銀行の頭取の三木制(すさ)に請われて、息子の節次郎と結婚し、操と勉の二児を産みました。
しかし節次郎の放蕩ぶりに、義父の制も自由を勧めたので、かたは嬰児の勉を連れて、鳥取の実家に戻りました。童謡「赤蜻蛉」は、「負われて赤とんぼを見た」と「姐や」を懐かしんでいますが、この詩に流れているのは、六歳で母かたと別れた操少年の、母を慕う孤独の淋しさです。
かたはその後、自立を求めて、東京の帝国大学医科大学付属看護法講習科に学び、帝大病院の看護婦を勤めました。彼女は日本近代看護の草分けの一人です。
その間にキリスト教徒となり、社会主義にも目覚めて、志を同じくする北海道の「小樽新聞」論説記者の翠川企救男(1877-1934)と愛し合い、一男四女を儲けました。
翠川企救男は、日露戦争(1904-05)に反対した幸徳秋水(1871-1911)、堺利彦(1870-1933)らの「平民新聞」の活動に共鳴し、自らも、北海道の囚人労働(監獄部屋)や、アイヌ圧迫などの諸問題を、鋭く糾弾したジャーナリストです。
翠川かたは、1924(大正13)年、西川文子らと夫人参政同盟を組織して理事となり、街頭宣伝にも立ちました。1927(昭和2)年には、婦人参政権と婦人公民権の運動を推進するため、鷲尾よし子らと女権拡張会を結成して、機関誌「女権」を発刊しました。その創刊号には、息子の三木露風が、次の二首を寄せて、母たちを励ましています。
あたたかき 心を持てる たらちねの
母にはまこと 力ありけれ
かぐわしき 花にも似たる おみなにも
正しき力 あらまほしけれ
アジア太平洋戦争が終わった1945年の12月、衆議院議員選挙法が改正されて、ようやく婦人参政権が実現しました。翌年4月、戦後最初の総選挙に、女性が初めて一票を投じた時、翠川かたはその喜びを、自らの長年の努力を振り返りながら、次の一首に歌いました。
雪氷ふみて通いし議事堂へ 婦人代議士おくる日はきぬ
1954年の秋、翠川かたは、目に白内障の症状が現れたので、息子の翠川道夫(映画カメラマン 1903-1998)に付き添われて、医師の診察と検査を受けました。その帰途、道夫が「どこか行きたいところはないか?」と聞くと、彼女はすぐに、「国会議事堂へ」と希望しました。
国会議事堂の正門は、固く閉められていましたが、道夫から母親の希望を聞いた守衛が、門扉を左右に大きく開いてくれたそうです。
翠川かたは、ゆっくりと門内に入り、夕日を背にした白亜の議事堂を仰ぐと、突然、両腕を大きく開いて、「わあーっ」と泣きだしました。全身を震わせ声を振り絞るようにして、号泣したのです。
婦人参政権の歴史を彷彿させる情景です。私は最近、国政選挙のあるたびに、翠川かたが号泣する姿を思い浮かべます。思い浮かべて、私たちの一票の、重さ、尊さを、噛み締めるのです。