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『従軍慰安婦110番』 電話の向こうから 歴史の声が:証言編 (他はタイトル と概要3 (「逃げまどった慰安婦たち」(ビルマ)…
『従軍慰安婦110番』
電話の向こうから
歴史の声が:証言編
書籍
発刊にあたってを書いて
いるのは高木健一弁護士
関連する
訴訟
藤岡信勝氏・池田信夫氏が「誤り」認め謝罪文 慰安婦訴訟の弁護士批判記事
慰安婦問題の訴訟を多く
手掛けておられるようだ。
証言
以下の証言については、
「関東軍兵士の証言集」
に紹介されています
『関東軍特殊軍属服務規程』 軍医(78歳)
『見送ってくれた慰安婦』砲兵隊(71歳)
『長襦袢の慰安婦たち』 砲兵隊(74歳)
『二〇〇〇人が集められ・・・・・・』 通信教育隊(73歳)
『面長は自分の娘を差し出して・・・・・・ 』 電信部隊(72歳)
『私をここから連れ出して』 在日朝鮮人(71歳)
『慰安所就業申請書類』 砲兵司令部·書記官(73歳)
『慰安婦「サダヒメ」』 印刷係(66歳)
『免税票をもって』 戦車連隊上等兵(70歳)
『オオカミに食べられた慰安婦』 築城部隊(76歳)
他はタイトル
と概要1
「ズボンを脱いで待っていた兵隊」(天津)
部屋の前には20~30人の兵隊が並んで待っていました。時間は一人、2、3分です。そのためか、並んでいるときにもう、ズボンを下げて待っているんです。
「人間扱いする必要はない」(インドネシア)
船の中での慰安婦たちの扱いがあまりひどいので抗議しましたら、下士官が「人間扱いする必要はない。牛馬以下なんだから。乗せてやっただけでもありがたいと思え」と言いました。
㊙の文書(ジャワ島)
看護婦の私は、兵隊たちが回覧している㊙と印された文書を目にしました。そこには「サチコ」「モモコ」など慰安婦の名前があり、「生理中」「休業」などと書いてありました。
「軍の直接管理」(岳州)
ここの慰安所は、完全に軍隊が管理していました。私は、慰安所の受付をしたことがあります。24時間監視で、ゲリラと逃亡を防ぎ、夜は鍵をかけました。慰安婦たちは自由に外出することなどできませんでした。慰安婦を集めるのは、軍から村の村長に命令がいくわけです。何人差し出せといった具合にです。朝鮮人慰安婦の場合は、酒保を補う業者と一緒に来ました。関西のやくざが多かったですね。
「入れ墨を入れられて」(博興)
今日新聞で取り上げられれているのは当然です。むしろ遅すぎた位です。ほんとに恥じ知らずだと思います。初めて会った慰安婦は、「女学校のとき、お国のためにみなさんの力が必要だから行ってくださいと募集があり、女子挺身隊とうまいことを言われ、憲兵に連れられてきたのです。いつも監視され逃げることはできません。また、入れ墨を入れられ、慰安婦だとわかるのです。」と話しました。
「軍属募集され」(マレー)
慰安所に行く兵隊は、トラックにギッシリ乗って行きました。前線にやられるのは、たいてい朝鮮人慰安婦でした。彼女が「私たちは軍属募集され、奥にのためと志願してきたのに、裏切られて…。もう、国には帰れない」と話していました。この慰安所の経営者は年配の日本人でした。
「トラックで検診にきた慰安婦たち」(海南島)
月に一回、3・4台のトラックの乗って慰安婦が検診にきた。民族別に慰安所があり、朝鮮人・台湾人の慰安所は粗末だった。軍から給料をもらっており、看護婦の私たちよりは高給だった。日本人の慰安婦は「特殊看護婦」という名目で募集された。今まで話せなかったけれど、何としてもこの問題は世に出して欲しいと思います。
他はタイトル
と概要2
「慰安婦の検診をした」(長辛店)
軍医が慰安婦の検診を嫌がり、衛生兵の私がしました。性病がひどいと白い膿が出て出血し、火傷で皮がむけて化膿したような状態になり臭かったので、軍医は嫌がったのです。兵隊にかかった兵隊は、進級はおろか、星も取られるのです。大変な不名誉だったわけです。
「妊娠して死んだ慰安婦」(コロール)
私は船の指揮官でした。その船の船底には、30人ほどの慰安婦が乗っていました。大部分が、朝鮮人女性です。「船内では使用禁止」という命令が出されました。内地の慰安所は業者の管理でしたが、南洋の場合は、明らかに軍が管理していました。しかも物品扱いでした。慰安婦たちは、10代後半から20代前半の朝鮮人女性が多かったですね。おにぎりを持って、仰向けになったまま一日に、40人ぐらいの相手をしていました。中には、妊娠して死んだ慰安婦もいます。
「モグリで行った陸軍慰安所」(宮古島)
沖縄の宮古島の慰安所は陸軍専用の慰安所なので、海軍の私はモグリで行ったのです。そこにいたのは、朝鮮人慰安婦が七、八人と、台湾人慰安婦が三人でした。そこにいた朝鮮人慰安婦は、全員、福岡から来ていました。私の同僚で、性病にかかった者がいましたが、当然、慰安婦たちもそうだったと思いますよ。しかし、簡単な治療しか受けられなかったのではないでしょうか。
「好きでこんなんになったんじゃないよ・・・」(インドネシア)
誰もが、「朝鮮ピー」を人間扱いしていませんでした。朝鮮人慰安婦の中には、ヒロポン中毒が大勢いました。薬欲しさに、慰安婦が荷物を頭に乗せて、病院前の川を渡って町に行く姿を、何度も見ました。誰も引き留める者はいませんでした。中国人にからかわれ、乞食のようにかどづけしたり、町でウロウロしたあげく、野垂れ死にしたのではないでしょうか。あるとき病院で、一人の朝鮮人が、「好きでこんなになったんじゃないよ。だまされて連れてこられたんだよ」とわめいているのを聞いたことがあります。
「回教徒の慰安婦たち」(インドネシア)
女性を駆り集めたのは軍で、無料慰安所でした。彼女たちは回教徒がほとんどでした。食料がなく、「今日はまだ誰も死なないか」というのが、会話の始まりになっていました。木の中の澱粉を粉々にして搾り取っていたものをいつも食べていました。慰安婦たちには、軍票で給料が支払われていましたが、食料を買うこともできず、結局使いみちがないまま敗戦と同時に紙屑になってしまいました。私は彼女たちが気の毒で、慰安所には行けませんでした。(通訳)
「武漢大学の職員住宅が慰安所に」(漢口)
武漢大学が陸軍病院になり、職員住宅が慰安所になりました。ある日、朝鮮人慰安婦が私に言いました。「朝鮮、朝鮮といってばかにするな。天皇陛下みな同じ」慰安婦たちは、自分たちも天皇陛下のために来ているのだと信じていたように私には思われ、大変感動したのを覚えています。
「教え子を挺身隊に」(朝鮮)
朝鮮に渡って小学校の教師になった。8人の教え子を「女子挺身隊」として富山県の軍需工場に送った。教え子たちから40年ぶりに手紙が届き、韓国に出かけた。そこで、みんなから聞かされたのは、挺身隊に送った八人の子供たちは、みな、「心身共に傷ついて、人の前には絶対に出てこない」ということでした。はっきり口には出しませんでしたが、それは、従軍慰安婦にされたことを意味すると受け取り、とてもショックでした。ただし、韓国では、勤労挺身隊と慰安婦が混同され、挺身隊=慰安婦と思われていることを最近知りましたので、他の教え子たちが勘違いしているのか、事実、慰安婦にされたのかどうかは判断がつきませんでした。それにしても、まわりに元慰安婦と思われて、小さくなって暮らしている教え子たちを思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいですが、今は、それを確かめることさえ彼女たちに迷惑がかかるのではないかと思い、どうすることもできません。
他はタイトル
と概要3
「逃げまどった慰安婦たち」(ビルマ)
日中戦争のときには、満州、北支、中支、南支と、大東亜戦争になってからは、フィリピン、シンガポール、ビルマ、ラバウルなど、ほとんどの師団に配属されていきました。小さくは、守備隊にまで行きました。慰安婦の数は、10万とか20万人とか言われていますが、実際には、40万~50万人はいたんじゃないでしょうか。どんなへんぴな所にも、慰安所はありましたから。作戦のたび、慰安婦たちは、兵隊の見送りに来てくれました。作戦のとき、私はビルマにいました。敗戦間近、女性も軍帽をかぶって一緒に山に逃げましたが、そのうちに離れていきました。あのとき生き残った慰安婦は、半分いるかどうか・・・。私は一度だけ慰安婦を「受領」に行ったことがあります。「○○地区(朝鮮)・・・何人」という具合で、名目は「物資受領」でした。
「ラバウルから送られてきた朝鮮人慰安婦」(トラック島)
大半が朝鮮人で、他に沖縄の人と他県出身の日本人が二人いました。「特殊看護婦」といって、だまして連れてきたようです。私は童貞で、どうしていいかわからないでおどおどしていたら、「我慢できるなら、結婚する奥さんに童貞を捧げた方がいいと、私は思いますよ」と、「キヌヨ」さんという朝鮮人慰安婦が言いました。その後、とても親切に教えてくれました。今考えると恥ずかしいことです。「キヌヨ」さんが今生きているなら、自分からお詫びに会いに行きたいですね。
「防空壕がなかった慰安婦」(トラック島)
小さな島なので彼女たちの行動範囲は限られたものですが、それほど拘束されていたようには思いません。なぜかと言いますと、食料が極めて不足しており、一時間おきに空襲があり、きちんとした管理は不可能だったのではないかと思うのです。爆撃の合間をぬって、漁労班が海で採った魚を分けてもらうか、椰子畑でさつま芋やパピオカを作って食べるのが精いっぱいです。兵隊でさえいつも空腹でしたから、慰安婦たちも同じだったのではないかと思います。配給は、一週間に一度あるだけでした。慰安婦へのお金の受け渡しは、日本のお金でしが、物資が不足していただめ、買える物はなく、結局、使いみちはなかったわけです。慰安婦には防空壕がなかったので、空爆があるときは、小隊長が気の毒に思って、慰安婦たちも兵隊と一緒に、岩盤で作った防空壕に入れてあげました。
「兵隊たちが二重三重に取り巻いて」(沖縄)
私たち初年兵は、上等兵に進級するための「抜擢」を得ようと各人が競い合っていましたので、慰安所には行こうとも思いませんでした。第一、そんな自由もありませんでした。しかし、一度だけ、仲間と一緒に慰安所を見に行ったことがあります。「その家」は、畑の中の一軒家でした。兵隊たちが家の周りを二重、三重に取り巻き、順番を待っていました。あたりには、異様な空気が漂っていて君が悪く、遠くから垣間見るだけでした。とても初年兵が列に入れる雰囲気ではありませんでした。
「兵隊が建てた慰安所」(新島)
私は、慰安所は国内にもあったことを強調したいのです。木材は、各隊が切り出し、職人出の兵隊が、その建設作業にあたりました。30~40人の慰安婦がいたのです。大隊の命令で、兵隊の利用日が指示され、ゴム製品が支給されました。慰安婦の日用品、甘味品、衣類の一部は部隊経理から支給し、米穀通帳は、新島村役場が発行しました。私は幹部候補生だったので、慰安所には行きませんでした。鉄条網の外側で女性たちを見かけることはありませんでした。ただ、鉄条網越しに、ひなたぼっこをしている慰安婦を見かけたことはあります。見て、すすぐにそれが朝鮮人だということがわかりました。
「出産した慰安婦」(南昌)
後方には日本人慰安婦がいて、前線に来るのは、朝鮮人慰安婦でした。私は衛生兵だったので、慰安婦の検診の手伝いをしていたのですが、あるとき、「オトマル」という源氏名の慰安婦が、出産したことがあります。子どもが生まれてからは、どこかに行ったのか、行方不明です。
「性病検査は、憲兵も立ち会った」(中支)
日本人の慰安婦は、みんな借金をしていましたが、だいたい半年で返していまいます。そうすると、慰安婦をやめて食堂を経営したりするわけです。朝鮮人慰安婦は、前線に連れていかれましたね。15、6人いたでしょうか。泣き泣き、駆り出されてきたのだという話をしていましたよ。慰安所には親方がいて、麻薬でもうけていたなんて話も聞きましたね。
「国内の慰安所で八か月働いた」(日本国内)
日本国内の航空基地のある慰安所で八か月働いた日本人慰安婦です。父親の前借金でB町の遊郭にいました。こんなところは嫌だと逃げたら、警察に捕まり連れ戻されました。遊郭と警察は一体でした。慰安所にいる頃親しかった友人に、戦後ばったり会いました。友人は「慰安所時代のことなど忘れるんだ」と、外見はきにかける様子もなく、前向きに生きています。その友人から、私は異常だと言われます。自分でも異常なのだろうかと思います。慰安所時代のことがどうしても払拭できないのです。劣等感にさいなまれます。今も慰安所にいたことが知られはしないかと不安から逃げられません。知られた場合にはどのように軽蔑されるか、身にしみて知っています。
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分析編